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>>001:その翌朝

「ふあ……あふ」
 大きく伸びをして緋紅は起き上がった。久し振りにすっきりとした目覚めだ。
 体の中の力の流れが整えられている気がする。今日は調子がすこぶる良いようだ。
 外を見れば、ぽかぽかとよい陽気である。今日の茶菓子は何かな、と呑気に考えたところで、ため息をついた。

 ──何をやってるんだろう。
 緋紅の生活は変わらなかった。簓の言った通り、稀紗に会ったところで、緋紅に何ができるわけでもなかったから。緋紅の存在が求められていることだけはわかって安心したものの、求められているものを差し出せないということが決定的になってしまっただけ。
 あの日以降、簓と交渉して、寝台から動けないことの多い稀紗の世話を分担させてもらっている。
 何も覚えていない緋紅に、稀紗も悔しさを感じているようだったが、稀紗が知る限り『緋紅』の話をしてくれていた。
 そこでわかったこともいろいろあるのだが、さらにわからないことが増えた気がしてならない──。

 ともあれ自分の記憶が戻らないことにはどうにもならないのだが、腹立たしいほどに糸口がない。
 折角調子が良くても、繰り返すのは怠惰な日常なのである。
 することがないなりに、今日は少し、体を動かしてみようか──などと考えながら、緋紅はクローゼットの扉を開けた。
 迷うように少し手をさまよわせて、しかし結局いつも通りの黒いワンピースを手に取る。
 クローゼットの中には千星の手により常に色とりどりの服が押し込まれているのだが、どうにも緋紅は華やかな色を身にまとう気にはなれなかった。おかげでらなには会うたびに陰気くさいだの重いだの暗いだの鬱陶しいだのさんざんな言われようである。
 ここに来るまでは黒以外の色を身に着けるのに別段戸惑いもなかったというのに、今はまったくそんな気になれないのは、この屋敷の纏う雰囲気がそうさせるのだろうか。
 確実に感じる自分とこの屋敷とのつながりを増しながら、緋紅がこの屋敷に来て、二ヶ月が経過しようとしていた。

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 本日のらな謹製の出口トラップは、扉を開けると上から垂直にナイフが落ちてくる、というものであった。ナイフの本数が多いうえに、時間差で波状に落ちてくるという粘着極まりない仕掛けであったが、仕掛けがあるとわかっているため扉をあけ放った後数秒は手も足も廊下に出さない緋紅にとっては、部屋の中に入ってくる仕掛けでない限り脅威でもなんでもなかった。
 眼前できらめく切先をぼんやりと眺めること十数秒。あらかた落ち切った後で、散らばったナイフを集める。
 今日のはぬるかったですね、と緋紅がしゃがみこんだまま思っていると、ちら、と視界の端で銀色が煌めいた。
 ──まだあったなんて、どれだけ仕込んでるんですか──!
 緋紅が内心舌打ちしつつ避けようとするものの、座っている体勢からはどうしても動きに遅れが生じる。
 魔力を圧縮して盾を形成する。
 大して難しい芸当ではない。事実、ナイフが彼女に突き刺さる前に、盾は完成するはずだった。
 ──しかし、盾が彼女を守る前に、一陣の風が吹き抜ける。

「……余計な事を」
「えっと。朝の挨拶はおはよう、だよ、緋紅?」

 カラン、とナイフの落ちる音を背後に、緋紅は忌々しげに顔をあげた。

「言っておきますけど。ナイフを見落としたのは確かに手落ちでしたが、あの程度でしたらちゃんと防げましたし、たとえ当たったとしても大したことにはなりませんでしたからね? あなたがわざわざ手を出すようなことでは全くなかったんですよ?」
「うん、確かに緋紅なら全然大丈夫なのはわかってるけど。僕だって大したことをしたわけではないし。あのほら、床にゴミが落ちていたら特に理由はなくとも拾うでしょう?」
「それ関係あるんですか」
「だってそんなこと言われたって。別に特に理由はないんだもん。緋紅が要求するから無理矢理理由づけしてみてるだけだし」
 簓は小首を傾げる。釈然としないが、自分でどうにかできたはずだとは言え、緋紅は助けられた身だ。謝意は述べておく。
 案の定簓が喜色満面の笑みを浮かべるが、見えない尻尾をぶんぶん振りながらまとわりついてくるその姿に、緋紅は朝から頭が痛くなった。
 折角晴れやかな目覚めだったというのに。この男といるときの緋紅は渋面しか作っていない気がする。

「……そういえば、朝一番からお会いするとは珍しいですね。私に用でもありましたか」
 一日の最初に遭遇する人物が簓となるのは緋紅にとって珍しい。ここ最近は千星や炬、おまけでらな達と食堂で食事をとり、稀紗に食事を運び、それから屋敷をうろついていたら不意に簓と遭遇するというのがパターンだ。
 指摘すると、簓はばつが悪そうに目を逸らした。
「用というか。……ええと、体調はどうかな、緋紅」
「良く眠ったおかげか不要なくらいにすこぶる好調ですが」
「……あんまり良くは眠ってないはずなんだけど」
「はい?」
 ぼそりと呟かれた言葉に聞き返すと、簓はいっそう挙動不審となる。
 ああ、えと、あの、と迷う姿を前に、緋紅は一層面倒な気分になってきた。爽快な気分で目覚めたというのに気分が下降してしまいそうだ。
「用がないのなら、私食堂に降りたいのですけど」
「わかったごめんなさい! 言うからもうちょっと待って!!」
 そうは言うものの、再び言い出しにくそうに口をつぐむ。よほど切り出しにくいらしく、なにやらもじもじと体を動かすさまが、とても緋紅の気に障る。待てと言われて暫く緋紅も佇んでいたものの、そろそろ自分の食欲に従って動こうかと足を踏み出したと同時だった。
 何故か泣きそうな簓が訳のわからないことを言い出したのである。

「端的に言うと、ええと、あの、あまり詳細を聞かないでくれると嬉しいんだけど」
「内容によります」
「ええ……」
「そこでまた言い淀まないでくださいうざいです。早く」
「でも聞いたら緋紅怒りそうだし……」
「多分あなたの口ぶりからして怒るでしょうね。現段階で結構すでにいらついてるんですが」
「緋紅は短気だからなあ……ざっと言うと。昨晩。緋紅にこっぴどく怒られて。眠らせてもらえなかったので」
「記憶にありませんが」
「きちんと緋紅が使い物になるように訓練しないといけなくなりました」
「――喧嘩売ってるんですか?」

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 階段を下りる途中、踊り場で立ち止まり詳細を問いただしてみたものの、簓自体気がやや動転しているのか、説明が要領を得ない。
 緋紅の知らない言葉が出てくるのは想定内にしても、ところどころ「えーとあの、」「あっこれわかんないよね」などと話が中断され、言葉の説明のために話が飛び、その説明がまたつかみどころがない。わからないところは後で尋ねるからとりあえず大綱を説明しろ緋紅が言ってようやく話を本筋に戻そうとするが、話がどこまで進んだかがわからず、結局最初から説明することになる、ということが数回。
 緋紅の部屋から食堂までは階段を一階分降りるだけ、というそう長い距離ではないのに、えらく時間をかけて階段を下りる。

 説明としては、昨夜未明に記憶を取り戻した(少なくとも『緋紅』という人物が目的を達成するために必要な記憶の欠落がないという意味合いの)緋紅が、簓の部屋を訪れ、自分の落ちた力を取り戻すよう要請した。というものであったが。
 どうして緋紅の過去を知っているという目の前の人物は、得てして現在の緋紅の理解を超えた話運びしかしてくれないのだろう。この要約ですら全く意味がわからない。いや、結論はわかるのだが、話の筋が理解できないのだ。
 会話は言葉のデッドボールじゃないんだけど、と何度も思考を放棄しそうになりながら、緋紅は会話を継ぐ。
「私、部屋から出た記憶なんてありませんが。そもそも簓さんがどの部屋使ってるのかも良く覚えてませんし」
「お、覚えてないんだね……。よかった、起きぬけにまた怒られたらどうしようかと思ったもん」
「それをさしおいても今の私が怒ってないなんて思ってるんですか? というかつまりあなた、私に怒られるようなことしてるって自覚がおありなんですね」
 あからさまにほっとしました、という表情を浮かべる簓を横目で睨みながらも、半ばどうでもいいと諦めていた。簓が緋紅に情報を開示しないのは、ここに来てから嫌というほど身に染みている。
 呆れ顔の緋紅を見る簓の顔はにこにことしていて、先ほどまでの緋紅の顔色を伺うような雰囲気は失せている。緋紅をいらつかせるのには変わりがないが、いつもどおりの簓の態度に内心動揺していた緋紅も
「で、訓練と先ほど仰っていましたが。結局私は何をさせられることになるんですか」
「えと、まず地下の演習場が使えるか魔力測定を…………、というか、ちょっと僕も昨晩の話を整理したいのだけど」
「演習場?」
「おもっきりぶっぱなせないとどのくらい緋紅が使えるのかわかんないし。いやまあこの前ちょっと食らったのでだいたいわからなくもないんだけど、あれが全力だとはちょっと思いたくないよね……」
「喧嘩売ってますか?」

 演習場。聞いたことのない施設だ。地下ということは、今まで緋紅が進もうとしても進めなかったエリアにあるものなのだろう。ようやく話が進みそうな段で頭上から涼やかな声がかかる。
「あら、こんなところで内緒話?」
「踊り場で話し込むなんて行儀の悪い」
 見上げると爽やかな朝にふさわしい笑顔の千星と、隣でいつも通りに緋紅を睨むらながいた。
 うえ、という呻き声が隣から聞こえた気がして横目で見てみたが、緋紅が確認した時にはもう簓は平然とした顔をしていた。
 いつも通りへらりとした口調で、ただ確かに咎める色合いを持って、簓は二人を見上げる。
「立ち聞きとかよろしくなーい」
「いやだな、聞こえたんだよ。この階段みんな使うんだから、こんなところで聞かれたくない話するほうがよろしくないよ?」
「そうやって自分を正当化して品位のない行為を許容しちゃうの、淑女としてどうかと思うんだけど」
「そうね、立派な淑女なら、ここは何食わぬ顔で影から聞き耳を立てて情報を確実に得るところかも。こういうところが私の未熟なところね、ねえらなちゃん?」
「いいえ、お姉さまは人として当然の指摘をしたまでですわ。感謝しこそすれ、こちらにあたるなど言語道断でしょう」
 笑顔で会話の応酬がなされるが、否応もなく言葉に含まれる皮肉を感じ取ってしまう。
 最近気づいたことではあるのだが、千星は簓に対して容赦がない。
 緋紅を稀紗と引き合わせてくれた時も、緋紅のためにそうしてくれた、というよりは、簓の思惑を崩すためにやったというほうがぴったりくる。二人に何があるのかはわからないが、こういうときの千星はとても楽しそうだった。

「──まぁいいや。緋紅、またあとでね」
「え、あとでって」
「あら、怒らせちゃったかしら?」
 数言の応酬の後、これ以上会話を続けても目的は果たせないと判断したのか、簓はあっさりと階段を上って去っていった。千星は悪びれることなく、淡く笑って朝食のメニューを考えている。
 ともあれこれまで一向に緋紅に働きかけてこなかった簓がようやくやる気になっているようだ。早めに切り上げて簓と合流しなければ、と緋紅は階下に降りながら思う。どうやら今日は本当に良い日のようだ。

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「あとで。後でって言いましたよねあの人……」
 やはり前言撤回すべきかもしれない。
 食後、千星たちとの会話もそこそこに、屋敷中を探し回ったが、簓の姿が見当たらない。
 書斎。
 テラス。
 そこここの空き部屋。
 稀紗の部屋。
 噴水のある中庭。
 屋内ではないのかと、屋敷から出て周囲の森まで踏み込んだ。おかげで日がすっかり高くなってしまっている。
 やはり先ほど簓が戻っていったとき、追いかけるべきだったのかもしれない。緋紅は途方に暮れた。
「あの人の部屋で待ち構えていれば、そのうち帰ってくるとは思うんですが。それすらもわかりませんしね……」
 簓がどこで寝起きしているのかは、屋敷内の誰も知らない。緋紅が魔力の気配をたどるに、おそらく緋紅の部屋のあるフロアにいると思われるのだが、ぼやけて特定できないのだ。屋敷内の空室のなかでも、他の階は鍵がかかっていてあかない部屋もあるが、緋紅の部屋のある階だけは全て扉を開くことができる。
 稀紗のいた空間のように、魔力による目くらましやカモフラージュがされている可能性も高いが、緋紅の魔力知覚能力は見破れるほど高くない。簓は緋紅の現在の力量を知っているようだったし、後程会うことを約束したのだから、緋紅の辿り着くことのできない場所にいるとは考えられないのだが──。
 首をひねりつつ、ぐったりした緋紅が自室の扉を開くと、能天気な声が正面から聞こえてきた。

「おっかえりー。遅かったね? 寄り道してたの?」
「……あの、ちょっとぶっ放したいんですけど」

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 口角をひきつらせていう緋紅に、簓は手を打って実に楽しそうだ。
「じゃあ丁度良かった! 説明というか現状の再確認してから、魔力の試算しようと思ってたんだけど、先にそっちする?」
「はい? 試算、ですか?」
「そう。ここを離れてから、緋紅って日常的に魔法を使うような環境にはいなかったんでしょう?」
 緋紅は頷く。
「バイトで必要に迫られる局面が幾度かありましたので、使わなかった、ということはなかったですが、全力発揮するようなことは少なかったですね。そもそも基本的には善良な学生をしておりましたし」
「ばいと?」
「この屋敷にいると忘れがちなんですが、そもそも世間は魔法使いに厳しくて。少ないですが都市部にいる魔法使いや、それを支援する奇特な一般人が集まって、魔法使いの地位を確保するための活動をしていたようなんですよ。機会があってそこに伝手ができたので、そのお手伝いをしていたんですよ」
 ルルに斡旋してもらった仕事である。魔法使いが迫害されずに魔法使いとして生きていくには、そこに所属することが一番簡単に思えたのだ。当然管理局に捕まって処罰を受けるリスクを孕むが、一人でいてもそのリスクはある。事実として学生をしていた時も、緋紅は管理局の警邏に何度も身元調査を受けているし、千星の庇護がなければあの町にはいられなかっただろう。
「へぇ。外はメンドクサイねえ」
「千星さんには内緒にしておいてくださいね。正直あの団体の活動は『反貴族』の典型ですから」
「おっけーおっけー。バレたにしても千星なら面白がって聞いてきそうな話題だと思うけどね」
「それでもダメなものはダメですよ。──それより、魔力の試算とは?」
「やりながら説明したほうがわかりやすいかな。下に行こうか。ついてきて」